シンガポールでは近年、詐欺被害が深刻な社会問題となっています。特徴的なのは、被害者が脅迫や強制を受けているわけではなく、「自らの判断で」送金や引き出しを行ってしまう事案が少なくない点です。
警察統計によれば、2025年上半期だけで詐欺件数は約2万件、被害総額は数億シンガポールドル規模に上っています。こうした状況の下、政府は「事後的に犯人を追う」だけではなく、「被害が進行している最中に止める」ための新たな制度を導入しました。それが、2025年7月1日に施行されたProtection from Scams Act 2025です。
1.制度の概要――警察による取引制限命令
Protection from Scams Act 2025は、警察官等(法律上のspecified officer)が、銀行に対して取引制限命令(Restriction Order)を発出できる制度を定めています。
この命令が出されると、銀行は対象者の口座について、次のような制限を課すことができます。
- 口座からの送金や現金引き出しを停止すること。
- クレジットカードや個人ローンなどの与信の利用や新規付与を停止すること。
制度の目的は、詐欺が疑われる状況において、被害者の資金がさらに流出するのを一定期間食い止める点にあります。本人の意思決定能力そのものを否定する制度ではなく、詐欺被害が拡大しやすい局面を一時的に遮断するための枠組みと説明されています。
2.どのような場合に命令が出されるのか
法律上、警察官等は、情報を得た場合に、次の二点を満たすと判断すれば取引制限命令を出すことができます。
第一に、被害者が詐欺師に送金する、現金を引き出して手渡す、又は与信を用いて詐欺師に利益を与える可能性があること。
第二に、被害者を保護するために取引制限命令を出す必要があること。
この「必要性」の判断にあたっては、家族や支援者が介入するための時間を確保する必要性、金融機関や関係機関がリスク低減措置を講じるための時間なども考慮要素として挙げられています。
典型例として想定されているのは、政府機関や銀行職員を名乗る電話やメッセージで不安を煽り、「調査のため資金を移動する必要がある」などとして送金を促す事案です。本人が詐欺であると納得していない場合、周囲が説得する時間が足りず、被害が拡大するケースが現実に存在します。
政府は、この制度を「最後の手段」と位置付け、他の方法で本人を説得できない場合に限って用いる方針を示しています。
3.対象銀行・期間・解除の仕組み
取引制限命令は、原則としてシンガポールの主要リテール銀行(D-SIBs)を対象に発出されます。対象者が複数の銀行に口座を持っている場合でも、銀行を替えて送金する行動を抑えやすくするためです。
命令の有効期間は原則30日とされており、必要がある場合には30日単位で最大5回まで延長できます。一方で、警察が「もはや詐欺に遭うリスクがない」と判断した場合には、30日を待たずに解除することも可能です。
4.生活への影響と柔軟な運用
口座が制限されれば、日常生活に重大な支障が生じます。この点は制度設計の段階から重視されており、政府は、生活費や公共料金、医療費などの正当な支出については、本人の申請に基づき個別に判断する運用を想定しています。
法律上も、本人や共同名義人の申請により、警察官等が条件や上限を付した上で、送金や引き出しを認めるよう命令内容を変更(variation)できる仕組みが設けられています。実務では、全面解除ではなく、この変更制度をどう活用するかが、過度な不利益を避ける鍵となります。
5.異議申立てと救済の位置付け
取引制限命令に対する主たる救済手段は、警察長官(Commissioner of Police)への異議申立てです。申立ては本人だけでなく、共同名義人も行うことができます。
注意すべき点は、異議申立てを行っても、原則として命令の効力は継続すること、そして警察長官の判断が最終とされている点です。審査は書面で行われ、審問を開かずに判断できると定められています。
このため、実務上は、全面的な争いを志向するよりも、生活費等に関する変更申請を通じて、現実的な影響を緩和する対応が重要になる場面も少なくありません。
6.銀行側の義務と免責
取引制限命令は、銀行にとっても大きな実務負担を伴います。オンライン送金、ATM、カード決済など複数の取引経路を横断的に停止する一方で、認められた範囲の支払いは通さなければなりません。
法的には、銀行が正当な理由なく命令に違反した場合、罰金の対象となります。一方で、銀行や行員が合理的な注意を払い、善意で命令に従った場合には、刑事責任および民事責任を負わないとする免責規定も設けられています。制度の実効性を確保しつつ、現場対応を萎縮させないためのバランスが取られています。
7.制度は「多用」されるのか
この制度は、頻繁な利用を前提としたものではありません。警察の公表資料によれば、施行後一定期間における取引制限命令の発出件数はごく少数にとどまっています。
もっとも、詐欺の手口は常に変化します。日本人居住者にとって重要なのは、制度の存在を理解した上で、不審な連絡により送金やアプリ操作を求められた場合には、いったん手を止め、銀行や公的窓口に確認するという基本動作を徹底することです。
取引制限命令は、そうした対応が間に合わないケースにおいて、警察が介入できる最後の安全装置として設計された制度と理解するのが実態に近いでしょう。
